関ヶ原合戦とミッドウェー海戦|互角の戦力なのに結果は圧倒的(敗因は?)

戦争では、戦力が互角な場合は膠着した戦いになることが多く、なかなか決着がつきません。戦えば両者ともに痛みを伴うので、戦力が均衡している勢力との戦闘は敬遠される傾向があり、それが現代の核抑止論につながっています。

歴史上の戦いでも、拮抗した戦力の勢力が争って戦闘の決着がつかずに長期化する事例は数多くあります。

そのような中でも互角な勢力がガチンコにぶつかって、明白な勝敗がついた例もあります。その例として戦国時代の関ヶ原合戦と太平洋戦争のミッドウェー海戦が挙げられます。どちらの戦いも当事者の戦力は互角で、勝敗を分けた原因は直接の戦闘力以外のところにありました。何が勝敗を分けたのか、この2つの戦いについて後生の凡人が結果論全開で分析します。

関ヶ原合戦

戦国時代を終わらせる天下分け目の合戦といわれるのが、西暦1600年(慶長5年)9月15日に現在の岐阜県西濃地域で起きた関ヶ原の戦いです。

徳川家康を総大将とする東軍約89,000人と、石田三成を中心(名目上の総大将は毛利輝元)とした西軍約84,000人が関ヶ原で対峙しました。人数の上では東軍が若干多いものの戦力に決定的な差はありません。

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むしろ先に関ヶ原に到着した西軍の方が高地に陣を構えて東軍を囲い込むような陣形(鶴翼の陣)を敷くことができたので、西軍の方に優位性がありました。生身の人間同士の戦闘ですから、高いところに陣取って攻め下りる方が優位です。攻め上るのは余計な体力の消耗を強いられてしまいます。また、西軍は高所に陣取っただけでなく、低地に集合した東軍を囲い込む布陣になっており、立地的には東軍の分が悪いのは確かです。

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図はwikipediaより引用

明治期に日本陸軍を指導したドイツのメッケル少佐も、関ヶ原合戦の陣形の絵図を見て西軍が勝つと見立てたという逸話もあるほどです。

戦闘開始前の西軍陣地では負ける気がしなかったのではないでしょうか?

しかし、戦闘の結果はわずか1日で西軍の大敗に終わります。これだけの拮抗した大勢力が対峙して即日に勝敗が決してしまう戦いも珍しいものです。

なぜ立地上の優位性があった西軍が負けてしまったかといえば、総大将である毛利勢が戦闘に参加しなかったこと、西軍の小早川勢が開戦後に東軍に寝返りしたことで戦力バランスが大きく東軍優位に変わったからです。

つまり、単純計算では西軍84,000人のうち毛利・長宗我部・吉川・安国寺の26,400人が戦力外となり、小早川の15,000人が東軍に流出して、西軍は実質42,600人です。これに対して東軍は当初の89,000人に小早川の15,000人が加わって10,4000人に増加しました。こうなると東軍と西軍の戦力比は2倍以上です。もう均衡の戦いではありません。(あくまで概算であり、戦闘中の寝返りですから双方ともに消耗があって実数は減っていたでしょう。)

なぜ、そのような事態になったかといえば、東軍の徳川勢の根回し・策略がうまかったということです。同時に豊臣に恩を感じる武将は多くても、西軍の中心となった石田三成に従うことに難色を示す武将も多く、西軍は統制がとれていなかったということでしょう。

西軍としては戦力の人数合わせをして互角のところまで持っていったけれど、戦場で思うように働いてくれなかったというわけですから、石田三成の読み違えということになります。

こうして長期戦が見込まれていた決戦が即日に決着してしまったわけです。

ミッドウェー海戦

もう一つの戦闘は太平洋戦争中のミッドウェー海域における日米の空母を含む機動部隊の決戦です。西暦1942年(昭和17年)の6月5日~7日にかけて日米の海軍主力がガチンコでぶつかりました。

太平洋戦争といえば、日本軍はアメリカ軍の圧倒的な物量の前にジリ貧の戦いを強いられたという印象になりますが、それでも初期の頃は奇襲効果もあって日本軍が優位でした。このミッドウェー海戦が起きた頃までは日本軍は文字通りイケイケムードで戦意も高かったようです。

この頃の海戦の主役は空母(航空母艦)と戦闘機(爆撃機や雷撃機も含む)です。性能の良い戦闘機を多く運用し、艦載機数の多い空母で敵拠点を急襲する戦法がセオリーとして定着していました。

そうした作戦行動をする上で一番の障害になるのが敵の空母の存在です。敵の空母を潰さないことには自軍が優位に動けません。そんな日米両軍の思惑が重なって、相手方の空母を沈めるための作戦が実行されたのです。

ミッドウェーに集合した日米両艦隊の空母と戦闘機数は、日本軍は空母4隻と戦闘機約300機、米軍は空母3隻と戦闘機約240機。米軍にはミッドウェー基地に約150機の戦闘機が配備されていたので、それを合わせると米軍の戦闘機は約390機です。

この海域に展開した戦闘機数としては米軍がやや多かったものの圧倒的な差ではありません。日本軍はゼロ戦に代表される航空機戦で連戦連勝を続けており、パイロットの技術力という点も加味すれば互角の戦いと言ってよい状況でした。

ただ、日本軍はレーダーや情報通信の技術では劣っていたため、ミッドウェー海域に米軍の空母が来ていることを認識していませんでした。そのため当初は米軍のミッドウェー基地への爆撃をするために対置爆撃用の爆弾を爆撃機に装備していました。

そのため米軍空母の存在に気づいた後も艦船攻撃用の魚雷に換装するのに時間がかかり、その間に米軍機の攻撃を受けて空母を沈められたとされています。

(作家の半藤利一氏は著書の「昭和史」でミッドウェー海戦に参加した複数の将校のヒアリングとして、換装に手間取ったというのは言い訳で連勝に浮かれて敵を過小評価した油断であったと指摘しています。)

また、日本軍の作戦立案も硬直していて、参謀が計画したとおりミッドウェー基地を攻撃することで、その後に救援で米軍空母部隊が来て、それを叩くという順番にこだわりすぎていました。

現実には米軍空母部隊が先に到着しているという事態を全く想定しなかったのです。

こうした背景があって先に相手の空母を発見したのは米軍であったため、先制攻撃は米軍からでした。日本軍は立て続けに空母3隻を失い、残る1隻(飛龍)から反撃を行い米軍の空母ヨークタウンを撃沈しました。しかし、その後に飛龍も沈められ、日本軍の機動部隊は参戦した空母4隻を全て失い、約300機の艦載機も失ってしまいました。米軍の損失は空母1隻と戦闘機約150機です。戦果では圧倒的な米軍勝利です。

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日本軍の技量の高いパイロットは沈没前に救出されましたが、当時の日本の工業生産力ではこの海戦で失った空母と戦闘機を再生産する余力は無く、これ以後戦況は暗転していくことになりました。

このミッドウェー海戦も戦力比ではほぼ均衡した戦いでした。しかし、日本軍がミッドウェー基地攻撃に固執し、米軍空母への警戒を怠ったことが致命傷になり、手痛いダメージを受けることになりました。

「米軍の空母はいないはず」「日本の戦闘機は無敵」といった油断や過信が均衡した戦力バランスを崩す原因になったようです。

古来から互角の戦力が衝突した場合は痛み分けになって長期戦になることが多いのですが、どちらかに作戦ミスや油断があるとそこから綻びが広がって一気に戦況が変わってしまうこともあります。こうした歴史の教訓に学び、日々の仕事にも状況把握や警戒心の維持を怠らないようにしたいものです。

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